スタッフトーク
2000年頃に収録されたチームリーダーと電子回路チーフによるテクノプランターについてのトークです。
スタッフ
アイディア・コンセプト
コンセプトはねぇ・・・、誰が操縦しても再現性の高い動作ができて、とにかく勝てるってことが最優先だった。
まあ5年間の最後ってこともあったし、担当教官からの圧力も大きかったから(笑)。
子機(種子)
とにかくルールの裏をかく・・・、じゃなくて、クリアすることでみんな頭がいっぱいだったと思ったな。
逆にガラクテックキャノンの方はその部分では安心だったんだけど、テクノプランターとは逆でうまく得点するのが難しいっていうか。
本体
少なくとも自分の携わったものの中では一番完成度は高かったんじゃないかな。
東北大会
アレはのっけからやっちゃったね。昔なら一発失格だったけど。
こちらとしてはスポットライト対策とか万全にしたのはよかった。
そして決勝戦はかなりドラマティックだったね。
終わった直後は絶対負けたと思ったもん。
これはBチームのリーダとして一応いっとかないとなんないので(笑)*8。
子機が狙いと違った方向に走りだしたときの衝撃といったらもうっ(笑)。
全国大会
本当は子機のシャーシを全部作り直したかったぐらいの気持ちだったよ。
で、他のブロックのマシンを見て、スピードをとにかく上げれるだけ上げようと。
でも全国での一番の敗因は、やっぱり打ち出し精度が上げられなかったことだと思う。
スピード*11自体は旭川に追いつくことはできてたから、あとはあの状況でも命中させれるだけの精度があれば…。
まあ終わったことだけど(笑)。
電気系統の故障*12で動かないのだけはかんべんって思ってたよ。
最後に何か
好きなことやれた工場*14はすんごい好きやった。
・・・T中君の活躍をはじめてみたときは「シャアだ、赤い彗星が帰ってきたんだ!」ぐらいの衝撃だったけど、今にして思えば彼がいなきゃ最後に優勝できてたかも微妙だったと思うし。
*1:最初はカーテンレールやプーリーなどで滑走させる形式が考えられていた
*2:毎年のことだがルールには穴がつきものであり楽しむポイントでもあるが、場合によっては製作途中にルール訂正の憂き目にあって土壇場で困ったことになる恐れもある。
*3:同年に行われた大学部門は、自動制御のロボットが2色の風船を識別して片方の色だけを割る必要があった。
*4:本体の重量は18kgまでだが、種子の重量の制限がない。よって、切り離して種子扱いにすることができれば事実上重量制限はないに等しかった。例:ロボコン大賞のMACH-CHAN1号
*5:その場しのぎな移動スピードアップに駆動電圧を上げるという方法がとられた。以降、スピードアップ=電池を増やすという安易な方式がシス研に根付いてしまった。
*6:初戦スタート直後に、設置禁止ゾーンに乗り上げてしまった。
*7:子機のフィールド接地時に微妙に向きが変わる問題
*8:テクノプランターが優勝しなかった場合、審査員推薦はガラクテックキャノンになっていた可能性が高かった。
*9:落下衝撃などの影響もあり、動作させるたびに部品のコンディションが変わっていった
*10:射出時に狙う島の色を決定できる機構など機能追加したいことは色々あった
*11:スタート時から位置取り(初弾発射開始)まで5秒
*12:試合中のトラブルで最もNGなものの一つ。マシンが全く動かない様子は見てる側も操縦者側としてもやりきれない。
*15:当時ロボコン参加が主活動のシステム技術研究会(シス研)から独立し、96年に地区大会優勝、97年も全国大会出場を決めた、鶴岡高専ロボコン史に輝かしい歴史を刻んだ人物。 彼の活躍中はシス研は影に潜むことになり、シス研メンバーからは一方的にライバル視されていた人物。